濱菊_瀬山

建物を設計しながら考えたことなど
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「オープンハウス、展」感想
先日、みかんぐみ曽我部昌史の自邸で行われていた「オープンハウス、展」を訪れる機会があった。きわめて興味深い展覧会であったので、感想を書いておくことにしたい。


まずおもしろいのは、そこでは、「オープンハウス」と呼ばれる、住宅を公開するイベント(すなわち、そこでは住宅そのものが観賞の対象となる)と、「展覧会」が同時に行われていたということである。建築設計などを生業としていると、例えば美術館に行ったときに、そこで観賞している絵画や彫刻作品だけでなく、その建物自体が気になって仕方がなくなってくるということ、すなわち美術館それ自体が一つの作品として見えてきてしまうということはよくあるのだが(ちなみに、このような視点は「美術作品を鑑賞する」という立場からは、単に不純な視点と思われる)、この展覧会はそういった混同を、あえて、積極的に行っている。すなわち、そこでは美術作品も、その作品が展示されている場所=家も、同時に観賞の対象となっており、それらの間に特別な差がつくられていない。この展覧会において、建物と美術作品の間には、積極的なヒエラルキーが与えらておらず、それらはその場で単に共存しているかのような印象をもった。たとえば、浅井裕介によって製作された壁画は、あらかじめ家にあった白い壁に描かれたという印象よりも、「そもそもそのような壁画が描かれた壁」によって建物が造られている、というような印象を私に与えた。
他の作品では、岩崎貴宏による「Out of Disorder KLM」と名付けられたものが、独特の存在感を放っていた。この作品は、繊維が一部ほつれた状態になっている靴下や毛布によって作られているのだが、そのほつれが、一定の緊張感を持った形状(たとえば、送電線の支柱となっているトラスの鉄塔のようなもの)になっているという、きわめて、ばかばかしいまでに繊細なものである。「脱ぎ捨てられた靴下」あるいは「まるめられた毛布」という、文字通りどこの家のリビングルームにもありそうなものが、しかし、よく見るとあり得ない(美しさをもった)物体として、投げ出されるようにリビングルームの床上に置かれているという、そのあり方が奇妙に面白く、おもわず見入ってしまった。また、この作品において端的に示されているような、「日常的に存在している事物に対し、ちょっとした操作を加えることによって、なんらかの美的な存在を気づかせる」という指向性は、他の作品にも共通しており、というか、なにより曽我部邸自体がそれらの作品と同じような指向性をもって現れているようにも感じられてくるのであった。



もう少し書き進めてみる。

曽我部邸は「○階建て」や「○LDK」といった、一般的に建物の性質を指し示すことができると考えられているであろう言葉で説明することが限りなく難しい性質をもっており、単に平面形や外観に着目してみてもそれを「○角形」や「○方体」という言葉で説明することもなかなか困難だと思われる。また、構造に着目してみても木柱+鉄骨の梁の混構造という不純なものであり、ここでも単純な要約を許さないし、それらを統括するような抽象的なコンセプトといったレベルにおいても、一言でまとめられるような言葉を見いだすのが困難であるといえる。すなわちそれは、いわゆる通念的な意味での一般化が非常に難しい建物であるといえるだろう。(仮に「○階建て」という言い方が成立したとしても、それはせいぜいが建築基準法における確認申請時に必要な程度の形式的なもの、いわば方便にすぎず、この建物のあり方を言い当てる言葉としては甚だ不十分なものであろう。)実際私は、事前に雑誌に掲載された内観写真と図面を見てからこの展覧会に行ったのだが、建物は予想以上に複雑で、とらえどころのないものとして現れた。そしてこのようなことは、曽我部が、この住宅を巡る西沢立衛との対談(住宅特集0707)において、建築が持つ狭義の意味での「形式性」に対して執拗に疑義を挟んでいることからも、必然的にそのように設計されたことが伺い知れる。「オープンハウス」と「展覧会」を同時に開催し、建物と展示作品の関係をなし崩し的に混合させて提示するというイベントの性質も、このような考え方の延長にあると考えて良いのだろう。ここでは、一般的に建築物という言葉で呼び習わされる概念の内包的な定義が、様々な方法で問い直されているのである。(他にも、住宅の片隅でコーヒーが売られていたり、舞踏家がダンスをしたりと、実に様々な方法で実践されていた。)

しかし一方でこの建物は、建築というジャンルが持つ、ある種の形式性について、きわめて意図的に、というか、それを利用する様に設計が行われているようにも感じられるのである。すなわち、崖地の利用、スキップフロア、混構造、隣家の隙間に開かれた窓、グレーチングの床…等の操作は、まさしく現代において建築家が住宅を設計する際に様々な手を尽くして練り上げてきた、このジャンルにおいて特有の操作であり、またそれゆえに、それらが渾然一体となって作り上げている一つの環境は、じつに「建築的」と言ってしまっていいような、ある種の楽しさ、心地よさに満ちているのである。またこの意味で、この建物は端的に優れた住宅であると思われる。

これはちょっとした、背反する事態なのではないだろうか。おそらく曽我部は、「建築」をその狭義の意味での形式性にとらわれることなく、できるだけひらかれたものとして成立させたいと考えているのだろう。しかしそのとき、そこで前提となっている「建築」なるものが、実はある種の閉じられた共同体でのみ有効な観念としてしか機能しておらず、その意味において、建築をひらこうとする試みが、実際は、ローカルなルールの存在を前提としたゲームのようなものになってしまう可能性があるのではないかとも感じられた。とはいえ、これはジャンルを問わず作品をつくりあげようとする者にとってはさけて通ることのできない重要な問いでもあると思う。(ここに展示されていた美術作品たちもまた、同様の問題を抱えているように思われた。)
| 建築計画 | 17:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
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