濱菊_瀬山

建物を設計しながら考えたことなど
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ドラクエのこと



もう数年前のことになるが、ゲームボーイにドラゴンクエスト1のカートリッジを差し込んで、駅のホームで電車を持ちながら楽しんでいたところ、ふと案内表示を見上げるとそこには、次にくる列車が「竜王」行きであるとのメッセージが…これはなかなかよくできた偶然だと思うのだがどうだろうか?

さて、今回のエントリで書こうとおもっているのは昨年末に任天堂DS用にリメイクされたドラゴンクエスト4(以下DQ4)のことだ。というのも、去年の暮れに購入し、今年の始めにかけてプレイしていたこのゲームを、僕はついに終わらせることが出来なかったからなのである。

といっても、これはこのゲームの難易度が高すぎて挫折した(例えば「魔界村」をクリアできないのと同じように)とか、そういうことではない。むしろ、ゲームは順調に進行しつつあり、このまま続けていればもうすこしで終わるだろうという雰囲気を漂わせていたにもかかわらず、そのゲームにたいする「興味」をついに持続できなかったのである。というか、より端的にいえば、そこで強いられる「作業」をすることに耐えられなくなってしまった、ということになる。

しかしこれは、一般的な意味においての「ゲームの完成度が低い」ということとは異なる問題になるだろう。なぜなら、リメイクされたDQ4は、淀みのないストーリー、美麗なグラフィック、細部まで楽しませようという配慮に満ちたディティール等、いかなる部分をとりだしてみてもおよそ破綻のない、きわめて「完成度が高い」ゲームであると言ってよいものであるからだ。
しかし、きわめて皮肉なことに、これらの、隅から隅まで行き届いた配慮こそが、プレイヤーに対してどうしようもない息苦しさを与えているのである。プレイヤーが遭遇するであろうあらゆる局面を想定して、先回りするように用意されるシナリオ。それはどこまで行っても抜け出ることが出来ない、人工的な環境の中でこぢんまりとやっている感じを醸し出し、ゲームをするという行為が「プログラマーによって作られた世界の細部をプレイヤーが確認していく」行為に近づいてゆく。それは、例えばどれだけmapが広かろうと結局のところ、単純で矮小化された箱庭を眺める行為にすぎない。なんというか、そこには「外部」が欠けているのである。僕はその世界のなかで、どれだけステータスの高いモンスターに遭遇しようとも決して怖くないし、何度死のうが結局のところ、一度たりとも傷つかないのだった。そしてこれこそが、このゲームが持つ構造的な問題に他ならない。(ちなみに、かつて中学生の頃ドラゴンクエストに出会った時はこのような感覚は希薄だった。僕はコントローラーを持ちながら、その世界を徘徊するモンスターたちとの遭遇に怯えていたし、また世界が広がっていく感覚に感動もしていたのだった。)

例えば、ドラクエを「上手い」人っていうのは存在するのだろうか。これがスーパーマリオやウイニングイレブン、バーチャファイターなどであるなら、そこには「上手い」あるいは「下手」ということが確実に起こりうるだろう。それを楽しむプレイヤーは、そのゲームに繰り返し触れながら、ある種のコツを自分の技術として習得してゆき、またそこからは、そのゲームのプログラマー以上にそのゲームが上手い者が現れてくる可能性すらあるのだ。しかし、ドラクエに関していえば、プレイヤーはどれだけそのゲームを繰り返し行おうとも「上手くなる」というよりは、むしろ「詳しくなる」と言った方が適切なのであり、その意味においてプログラマー以上にそのゲームに「詳しい」者は決して現れないのである。プレイヤーに可能なことが、プログラマーによって構築された世界の隅々を「確認」してゆくことだけしかないのだとしたら、それはなんて退屈な世界なのだろうか。

(おそらくこの問題は、単にDQ4にとどまらず、なにかの人工的な環境を構築しようとする際に起こりうる、一般的な問題として敷衍可能なものなのだろう。つまりこれは他ならない「建築計画」の問題に接続可能である。というか、これこそが建築計画が持つ最大の問題点であったのだ。この点において、ゲームをプログラムすることと、建物を設計することはきわめて似た行為であると言える。)

とはいえあまりネガティブなことばかり書くのもなんなので、DQ4をプレイしながら可能性として開かれているように感じたことについて記しておく。

それは、AIの問題である。これは、プレイヤーキャラクターがそれ以外のキャラクター(コンピュータ)に対して「話しかけた」時に、登録されているいくつものボキャブラリのなかからランダムにセレクトされた返答が与えられ、あたかもそこで「会話」が成立しているかのように感じさせる、という機能である。この機能がいわゆる「人口無能」としてプログラムされている「酢鶏」のようなものに近づいていくと、その世界が一気に広がるのではないかと思われた。もしくは「人口無能」的なプログラムを与えずとも、単にボキャブラリの数を莫大にすることで、その「量」が結果的に「質」を変えてしまう可能性もあるかもしれない。そこで与えられる返答が、この先もう一回も出てくることがない物になりえるくらい膨大な量のボキャブラリになれば、そこで行われる「会話」はまさしく一回きりの、他には交換できないものとして成立することになるだろうからである。いずれにせよ、ここにはプレイヤーがコンピュータと「会話している」という錯覚を起こさせる装置としての可能性が開かれていると思われる。それが「ドラクエ」である必然性があるんですか?と聞かれると、弱いのもがあるのだが、ドラクエという固有名がひとつの世界観として成立しているブランドである(=キャラクターが立っている)ということは、単なる形式性以上に重要な要素と言えるかもしれない。
| ゲーム | 23:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
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