濱菊_瀬山

建物を設計しながら考えたことなど
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森山邸のこと

ひと月ほど前、森山邸(設計:西沢立衛)を見学する機会に恵まれたので、ここにメモを残しておくことにする。

この建物において作られている様々な場所を分類すると、次のような物になるだろう。
「屋根のない場所/屋根のある場所」
「靴で歩く場所/靴を脱ぐ場所」
この2つの分類項の組み合わせによって作られる4つの領域(屋根がなくて靴を履く、屋根はないが靴は脱ぐ、屋根はあるが靴を履く、屋根があって靴を脱ぐ)がこの建物には存在する。というか、この建物を訪れてそこを歩き回っていると、自ずとこのことに気づかされるような作りになっているのである。

これはこの建物にとって、非常に重要な事だとおもわれる。なぜならばこのような形式性は、通常の建物においては自明のように前提とされている「内部/外部」といった分割のうちには捉えきる事ができない空間の存在を含んでいるからである。例えば、ガラスによってのみ囲われた通路状の空間は、床面も土で作られていたが、ここは外部なのか?内部なのか?あるいは、小さな浴室とキッチンの間に挟まれ、植木が植えられている中庭のようなスペース。ここは、物理的には「屋外」の空間でありながら、しかしきわめて「内部」的な場所になっていると言えないだろうか?

ちなみに、この建物を実際に訪れて見学する前は、雑誌などでプランや写真を見た印象から、この建物はそのスタディ時に、一つ一つの建物がボリュームとして想定され、そのボリュームの大きさや、それらを敷地の中にいかに配置するかを検討する事に莫大な時間が費やされたのではないかと推測していた。またこの意味において、この建物は、ボリュームの大きさとその配置計画というレベルに主眼をおいた一つの形式的な操作結果としてつくられている(ゆえに、そういった操作の手つきを空間から感じ取ることができる)のだろうとも考えていた。


しかし、実際に建物を訪れたときに感じられるのは、そういった事(すなわち、配置やボリュームを操作した結果としてつくられている建物ということ)とはだいぶ異なる物だった。一旦建物に入ってしまう…というか、敷地に足を踏み入れてしまうと、配置やボリュームなどという概念はほとんど意味をなさないものであることがわかるのである。それはなぜか。配置やボリュームという言葉のうちには、それを「操作」する者の視点が入り込んでいる。すなわちこれらの概念は「全体」を観る事ができて初めて意味をなす概念であると言えるだろう。しかし、この建物はどうやっても「全体」を見渡す事が出来ないし、またそれを意識する事がほとんど無意味であるようなつくりになっているのである。建物に入り込んで複雑につながり合った空間の中をうろうろしているうちに、ボリュームや配置といった概念は消失し、そのかわりに、壁と壁の間に作られ、至る所に存在する、様々な質差を持った小さな領域の印象が強くなってくるのである。例えば、この見学の機会をつくって下さったOさんが暮らす建物の裏手から、森山氏が暮らす建物へと移動する、一連の導線中で柿の木が植わる小さな中庭におかれたベンチに座ってみたり。また、森山氏が暮らす建物の隙間に作られたガラス張りの廊下と、そこをすかして見える「隣地」の風景、あるいは一番奥にある建物の向こう側にある、隣地との隙間にある細い路地等。この建物は、部屋から路地に至るまで、そういった小さな領域の集積として成立していると言ってよく、またそれは冒頭に述べた通り、「屋根のない場所/屋根のある場所」「靴で歩く場所/靴を脱ぐ場所」という2つの分類と、その組み合わせに作られる、4つの領域のいずれかに属する物として存在するのである。


とはいえ、この建物にとってボリュームや配置という概念が意味をなさないものであるかというと、決してそうではないだろう。なぜなら、結果的に建物において獲得されている4つの領域に還元される形式性もまた、ボリュームや配置のスタディの結果獲得されたものであると、考えられるからである。すなわち、そこでは建物の中とそれらが立ち並ぶ事によってつくられる隙間が、ほぼ同じくらいの面積になるように設計されているが、これはボリュームや配置をスタディしなければ出てこない物であるだろう。その結果、この建物が持つ諸領域は、通常の建物における領域の分節方法からはずれ、冒頭の形式性が際立ったものとして現れてくるのである。このことを達成するための「方法論」としてボリュームや配置のスタディが存在する。(ちなみにこの形式性が発露するためには、建物を造っている壁の内と外との仕上げがほぼ同じ物に見えるということも大きく関わっていると思われる。すなわち、建物の内側も外側も、同じようにただ「壁に挟まれた」場所になるようにつくられている。)

重要なのは、ボリュームや配置をスタディするという方法論から開始して、しかし完成された建物のうちには、その方法論にとどまらない新たな領域が生み出されているということなのである。また、そこで獲得された新たな形式性が、通常の意味における「内部/外部」の峻別という形式性とは異なった位相に存在するものであるがゆえに、この建物の空間が、その見た目以上に可能性を秘めた何かに見えてくるのであろう。
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