濱菊_瀬山

建物を設計しながら考えたことなど
<< 「風景の解像力展」感想 その1 | main | 「建築がうまれるとき」感想 >>
「風景の解像力展」感想その2

前回に引き続き、「風景の解像力」展の感想。
乾久美子による展示を眺めながら考えたこと。おそらくこの作家は、『建築についての展示を行う事が「実際の建築物とは全く異なる形式性を持った一つの作品」をつくりだすという事に他ならない』という事に非常に意識的な人なのだろう。

乾による展示は、「図面、写真と模型をテーブルの上に並べている」という作られ方において、いわゆる建築の展覧会によくあるものに見えなくもない。しかし、注意深く作品を見てみると、事態はそう単純ではない事に気がつく。そこに展示されている図面は、テーブルの表面をスキャンニング(?)した紙の上に、白抜きで印刷されており、また写真は、例えばいわゆる「建物の内観写真」について、そこからサッシなどを切り抜き、風景のみをフレーミングして、直接テーブルの上に貼付けられていた。なぜ、このように複雑な方法がとられていたのか。


なんというか、それらは、建築の図面である事や内観写真である事以上に「テクスチュア」や「映像」といった概念を容易に連想させるものである。というか、その机の上に並べられるものはすべてその「デスクトップ」に「表示される像」として扱われる事になるような空間(=コンピュータのデスクトップ?)を作る事が、この展示の目的であるようにも思われた。特に、テーブルの表面をスキャンニングした紙の上に白抜きの印刷が施された図面は、必要以上にペラペラなものとして感じられ(白地の紙に黒印刷だと、それがあくまでも「紙」に印刷されたものであるという、物体としての紙の存在感が出てくるだろう)、その効果を発揮していた。これは、この作家が、展覧会に展示する展示物を、どこかにある建築物を説明しながら追体験させるようなものではなく、それ自体が単独で成立する作品として設計している事を意味しているだろう。

また、このような展示方法は、この作家が作ってきた建築作品が、ディオール銀座店のファサードやヨーガンレールの内装デザイン、ストライプ状に塗り分けられた室内空間等であることを考えると、非常に納得がいくものであるとも思われる。なぜなら、これらの作品は、専らその表面を操作の対象として扱う事で現れてくる「像」が問題となっているように感じられる建物ばかりであるからだ。すなわちこの展示には、作家の興味の対象がきわめてわかりやすい形で現れている…というか、この作品のつくられかたは、作家の興味の対象を文字通りの意味で形式的に成立させるように遂行されており(逆に言うとそれ以上の事がなされていない)、つまりは、あまりにも「言文一致」に見えてしまうことが問題なのかもしれないと思った。


ちなみに、このような形式性は前回のエントリで書いた中山英之の作品と、全く逆の方向を向いているものであるようにも思われる。中山による作品は、一見、像に見えるもの(=スケッチ)を提示していながら実は、「建築的」としか言いようのない、厚みと奥行きを持った立体物として提示されていたから。

| 展覧会の感想 | 16:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
コメント
コメントする









この記事のトラックバックURL
http://sym.hama-giku.com/trackback/677997
トラックバック