濱菊_瀬山

建物を設計しながら考えたことなど
<< 「風景の解像力展」感想その2 | main | メルクリのスケッチについて。「建築がうまれるとき」感想 その2 >>
「建築がうまれるとき」感想

東京国立近代美術館で行われていた「建築がうまれるとき/ペーター・メルクリと青木淳」の感想。

展示内容・方法とも非常に面白く(というか、内容と方法がわかちがたく結びついている展覧会だったので、このような書き方は本当をいえば適切でないのだが)、そのタイトルが示す通り、「建築がうまれる」その有様が、むき出しになってそこに露出しているという印象を受けた。


西澤徹夫によって設計された会場構成は、各所で雲形定規のような形をした展示台が天井から吊るされ、その上に小さな建物のスタディ模型が載せられているというものだった。会場はワンルームなので、会場に足を踏み入れた瞬間にこの展示の全貌を見渡すことができるが、この時点では展示台相互の間に作られたヒエラルキーははっきりしていない。

しかし、鑑賞を始めると、展示台に載せられた模型は時系列にそって並べられ、そのことがわかるように簡単な番号が展示台ごとに割り振られていることに気がつく。鑑賞者は、それらの模型をならべられている順に追いかけながら鑑賞することになるのだが、その過程で、「雲形定規」の間を振り返ったり、移動したりしながら、ひたすら行きつ戻りつさせられることになるのだった。また、この「雲形定規」はきわめて軽い材料(9mm程度のシナベニヤで40mm程度の発泡スチロールをサンドイッチしており、断面が露出している。またそれであるが故に極細のワイヤーで吊られるだけでも展示台として成立していた。)で作られており、ちょっとしたことで、ゆらゆらと揺れるのだった。1300mm程度の高さに設定された展示台は、通常の展覧会であれば、結構な高さに感じられるだろう。しかし、この展示においては、文字通りスポッと「雲の上」に顔を出した鑑賞者が、その間をうろうろさまよいながら鑑賞するという風景をつくり出しており、なによりその様子が面白いのである。また、この展示が最終的にどこへたどり着くのかわからないように設計されていることも重要だろう。鑑賞者は、模型の間をうろつきながら、最終的には思いがけない場所にたどり着くことになる。

建物のスタディ模型は、建築家によるちょっとした解説がなければ、とても同じプロジェクトのスタディとは思えないほど、脈絡なく変化しながら、しかし、連続した一つの建物の設計プロセスのなかで生まれたものとして提示される。例えば、一番最初に「塔」という言葉で説明された建物の形は、すぐに「免震構造」という言葉によって相対化され、その後も変化を続ける建物の形に対して「基壇」「レンズ」「配管スペース」「かたまりの分岐」「桜の枝ぶり」「はちのすに蜜がたまる」「雨の日に洗濯物」「スキップフロアが外壁に現れる」「ダブルスキン」などといった言葉が次々と現れ続けることになる。面白いのは、これらの言葉だけを取りだして並べてみると、そこには一見なんの脈絡もなくみえるということだろう。というか、実際言葉だけを取り出してみれば、なんの脈絡もないのである。しかし、それらは同じプロジェクトによって変化し続けるかたちが生み出した言葉(その言葉は建築家によって発見された)という点において、束ねられている。


そしてそこから見えてくる(それらスタディ模型同士を関係づける)のは、言ってみれば、というか無理やり言葉にすれば「建築の幾何学」としか言いようのない質のなにかであるだろう。というか、この「なにか」の存在を示すことがこの展覧会の目的なのだと思う。

すなわち、単に形態を操作するという視点に立てば、不純としか言いようのないもの、「配管スペース」とか「雨の日に洗濯物」とかその他いろいろなものがつくり出すかたちが、結果的に「建築」以外の他のジャンルでは想像もできないようなかたちとして私たちの目の前に現れることになるということだ。ここで現れてくるかたちは、少なくとも幾何形態を操作するという視点に立てば、ひどく、乱雑で散らかった、まとまりのない、不純なものにみえると思われるが、この不純さを調整しながら、その先に主題を探し続けることが建築家の役割なのである。またこの点において、揺れ動く「雲形定規」の間をさまよわせるという形式で作られていた会場の設計方法は、展示内容とわかちがたい意味を持って現れてくることになるだろう。この体験をひとつの旅と呼んでもいいのではなかろうか。


ちなみにこの旅は、プロセスにして20番の行程まで続き、またそれは結果的に行程4.02にきわめて近いものだった、ということが示されて終わる。面白い、というか笑えるのは、ここで示されたかたちをよくながめてみても、少なくとも会場に置かれた模型をみるうちには、それらが「あまり似ているようには見えない」ということなのである。つまり、この不純さが示すのは、そこにあるのはあくまでも「建築がうまれるとき」のかたちだということなのだ。
| 展覧会の感想 | 20:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
コメント
コメントする









この記事のトラックバックURL
http://sym.hama-giku.com/trackback/685019
トラックバック