濱菊_瀬山

建物を設計しながら考えたことなど
<< 「建築がうまれるとき」感想 | main | 都営バスに乗りながら考えた事のメモ >>
メルクリのスケッチについて。「建築がうまれるとき」感想 その2

メルクリのスケッチについて。ペーターメルクリによって描かれたスケッチ群は、自分たちが知っている、いわゆる「建築のスケッチ」とは、どこか異なった印象を与えるだろう。そこで描かれているスケッチを「建築のスケッチ」だと思って観ようとすると、なんというか、わりと観づらく感じるように思う。私は、展覧会場でメルクリのスケッチを見ながら、最初はそのスケッチをどのように観たら良いのかがよくわからず、違和感をかかえながら観ることになったのだが、そのうち、その違和感は、それらのドローイングが、建築物を「説明しようとしていない」からなのではないかということに、思い至った。(そして、一旦このように気づくと今度は、そこで描かれているスケッチが非常に豊かで可能性のあるものにも見えてくるのである。)

「建築のスケッチ」というと、私たちはなにか、そのスケッチの向こう側に「実際の建築物」があって、スケッチはその建築物について描かれたなにかであると、考えてしまいがちだ。この時、そのスケッチは、実際の建築物の「見取り図」あるいは「説明図」として描かれることになるし、なにより、そのような役割を期待されてもいるだろう。これは、完成した建物についてのみ言えることというわけでもなく、例えば、私たちが設計の過程においてスケッチを描く時、その姿を確認するかのように描くことは多い。これは、その先に実際に建つであろう建物の姿があり、スタディの過程でその姿を検討するために描かれるものであるわけであるから、当然のことでもあるだろうが、建物はこれから建てられるにも関わらず、スケッチがその建物を「説明する」かのように描かれてしまうのである。またこれは、実際には建たなかった建物のスケッチや、あるいは最初から建たないことを想定したプロジェクト(例えばアーキグラムよるスケッチなど)であっても同様だろう。そこでは、建物がスケッチに先行する形で想定されており、スケッチはその建物の説明書として現れる。


しかし、メルクリによるスケッチは、このような描かれ方をしていない。少なくとも、そこに展示されていたスケッチは、いかなる建物の説明もしていないように見えた。

抽象的な言い方しか出来ないのだが、そこにあるスケッチは、「建築について」描かれたドローイングではなく、「建築として」描かれたドローイングなのであろう。だから、例えばそこに描かれた線が、「くの字」のような形をしたラインのみ(展覧会カタログ25頁参照)であっても、それは紛うことなき「建築」として成立するのである。おそらく、そこで実践されているのは「建築を考える」ことではなく、「建築で考える」というようなことなのだろうと思う。また、ここで重要なのは、スケッチとして描かれているものが、単なる抽象的な線の束ではなく、それでも「建物に見える」ことであろう。例えば、海岸を連想させる波線の横にビーチハウス(?)が描かれた一連のスケッチがある(展覧会カタログ28頁参照)。このスケッチはしばしばその外側に描かれた四角い枠とセットで描かれているのだが、この枠は単なるトリミングということ以上に、「窓枠」を容易に連想させる。このようなもの、すなわち、どこかにある建物の窓から外を見たときに見える風景として描かれているようなスケッチは他にも多かった。また、他のスケッチにおいても「笠木」や「階段」「柱」といった要素が注意深く描き分けられており、結果的にそれらは建築というジャンルに特有の、単なる幾何学性に還元することが出来ない、不純さをまとった物として現れることになるだろう。そしてこれは、前回のエントリで書いた、青木淳による一連のスタディ模型が持っていた不純さと良く似ている。(前回のエントリでは、この不純な幾何学性のことを「建築の幾何学」と仮に呼んでみたのだった。)


なんというか、メルクリは、常に「建築」の中で考えている人なのではないかと思う。そして、このような考え方から生まれてくる物は、どこか、トートロジーに接近するだろう。思うに、メルクリの建物においてハンス・ヨセフソンの彫刻がしばしば設置されるのは、トートロジー(すなわち「建築は建築である」という閉じた循環)から建物を少しだけずらし、現実につなぐためのアンカーのような物が必要だからなのかもしれない。私は、メルクリの建物について実作を観た事はないが、実際に展覧会場でも壁に掛けられた彫刻作品は、そのような役割を果たしているように見受けられた。とはいえ、繰り返す事になるが、これはメルクリのドローイングや作品が、何か抽象的なものであり、その抽象性を具体的な事物に落とし込むためにこのようなものが必要だという事とはまた異なっているだろう。建築物をトートロジカルな形式性のうちに成立させようとする指向性は、一般に建物のかたちを狭義の意味における幾何学性へと還元する傾向が多いように思えるが、メルクリの建物はそのようにはつくられていない。メルクリの建物は、どこまでも具体的な建物にしか見えない(すなわち、幾何学性へと還元できない、具体的で不純なディティールだらけの)ものでありながら、しかし一方で「建築の幾何学」という観点に立つと、なにか純然たる建築として、その存在感を増すように感じられるのである。このありようが大変興味深い。
| 展覧会の感想 | 14:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
コメント
コメントする









この記事のトラックバックURL
http://sym.hama-giku.com/trackback/731226
トラックバック